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Posted by だてBLOG運営事務局 at

2008年07月19日

生命の魚、サーモン。


ムース(ヘラジカ)と並んで、ビーバー村の人々に欠かせない食物が、サーモンです。


毎年夏(ビーバー村あたりの"夏"は、だいたい6月〜7月)になると、人々は"フィッシュキャンプ"をします。
6月末から7月にかけて、ユーコン川には何種類かのサーモンが遡上してきます。
それらを獲って、薫製などの食べものを作り、来る冬に備えるのです。

これは、4年前に77歳だったエルシーおばあさんが、孫を連れてフィッシュキャンプしているときの写真。

アサバスカンインディアンは縄張り意識が強く、テリトリーが決まっているため、毎年同じ場所でのキャンプ。
川べりに立てた簡易小屋やその周辺で寝泊まりしながら、日がな一日サーモンを獲ってはさばいて、燻す、そんな作業をくり返します。




これらは、キングサーモン。

一尾だけ、ドッグサーモンなる種類が混じっています(写真向かって右から3番目、
ちょっと黄色っぽいサーモン)。
ドッグサーモンは、時期的に、キングサーモンの次に遡上してきます。
キングサーモンよりも味が劣るといい、「犬のエサにするようなサケ」、
という意味でドッグサーモン、なのだそうdog




ユーコン川に遡上してくるサーモンのうち、おもにキングサーモン、チャムサーモン、
シルバーサーモンを、ビーバー村の人々は食べています。




これは、英語でFish Wheel、"インディアン水車"とも呼ばれる、先住民の人々の魚とり機。
その辺にある材料を使って組み立てた、手作りです。
アイヌの人たちも、同じような器具を使ってサケを獲っていたといいます。
彼らは、魚を根こそぎ獲り尽くすようなことはしません。
上流で魚を待つ人たちのこと、また生態系のことも考慮し、サケがさらに遡上
できる余地を残しつつ、漁をします。




アップでみると、けっこうな迫力。
サーモンは歯が鋭く、かなりいかつい顔をしているのがよくわかります。。


キングサーモンは、重いものでは一尾20kg近くあるものもあります。
サーモンが乗っているのは、魚をさばくための台。




さばかれたサーモンは、約2週間コットンツリーという木を燃やした煙で
燻され、薫製にされます。
この薫製は"サーモンストリップ"と呼ばれ、長い長い冬の間の貴重な
食料となるわけです。




光り輝くイクラ。
ビーバー村の人はイクラは茹でたり、スモークにして食べるのだそう。
「日本人にとっては醤油漬けや塩漬けがやはりおいしい」とは、リョウさんの弁。
  


Posted by ビーバー at 18:00Comments(0)ビーバー村のこと

2008年07月13日

"メモリアルポトラッチ"の意味すること。

"ポトラッチ"という言葉は、「贈与(give away,gift)」を意味します。
もともとは、ハイダ族やクリンキット族など、トーテムポールを作る文化を持つ
北アメリカ大陸の北西部沿岸の先住民に由来する儀礼。
それがいつしか、暮らすエリアが近かったアサバスカンインディアンにも伝わり、
彼らの文化にとり込まれていったようです。

部族ごとにいろいろ違いはありますが、基本的にポトラッチでは主催した人々が、
来客に食事をふるまい、記念品を渡すなどしてもてなします。

食べ物としては、まずムース(ヘラジカ)がとても重要です。
ムースのスープをみんなで食べ、その日を境に死者の魂が旅立つといわれます。
また、訪れた人すべてに十分な食べ物を提供できるよう、夏の間はサーモン漁に
精を出すなど、いつも以上に食料を確保することになります。



ビーバー村でのポトラッチの風景です。
4年ほど前に、リョウさんが村に滞在したときに撮影しました。


食事の場所は、村の中心地の広場。
朝は体育館で、昼と夜は屋外で、そのつど料理がふるまわれます。




並んでいる料理は、ムースのスープをはじめ、キングサーモンのオーブン
焼きや、サラダ、パスタなどさまざま。

グッチン語でのお祈りの言葉のあと、お年寄り→子ども→ほかの大人、という
順番で料理をお皿に盛っていきます。
アサバスカンインディアンの社会において、もっとも尊重されるべき存在は
お年寄り、その次に大切にされるのが子ども、という信条がそこに垣間みえます。


ポトラッチで来客に手渡す記念品にはさまざまなものがありますが、たとえば、このようなビーズで作った工芸品もそのひとつです。


工芸品はすべて手作り。
手作業をすることで、大切な人が亡くなった哀しみをいやす、という
意味もあると聞きます。
来客に贈るギフトを作るプロセスにも、故人を偲ぶ想いが詰め込まれるのです。

村全体で催すような大規模なポトラッチは、アサバスカンインディアンにとって
たいへん特別なことです。
今回のフランク安田没後50年メモリアルポトラッチは、村の礎を築いた人物を
偲ぶポトラッチであり、さらに、日本からたくさんの人たちがやってきて催される
という前例のないもの。
どのようなポトラッチになるのか、期待が膨らみますicon12  


Posted by ビーバー at 05:52Comments(0)ビーバー村のこと

2008年07月01日

大切な食料としてのムース (MOOSE/ヘラジカ)


ビーバー村近郊には、こんな風なひょろ長いスプルース(トウヒ)の木が密に生えた森が広がっています。
これから、ムース(ヘラジカ)ハンティングに向かうのですスニーカー


ムースを待ち構えて、銃の照準を合わせているところ。

ムースハンティングは、とにかく待ちます。
同じ場所にいて数時間じっとしながら、ムースがやってくるのを待つのだそうです。



(photo by MS clipart)

ちなみにこれが、雄のムース(Bull Moose)。
大人の雄の大きさは、だいたい平均で約400kg-700kgもあるとのこと。
大きな角が特徴的です。
繁殖期には、雌を巡り、雄同士がこの角を突き合わせて戦います。



(photo by MS clipart)

こちらが、雌のムース。
大人の雌の大きさは、だいたい平均で約270-360kgほどとのことです。
けっこう、愛嬌のある顔をしています。。




これは、私がユーコン準州で遭遇した親子のムースです。

インディアンの人々の間では子連れのムースは絶対に撃ってはいけないことに
なっていて、ハンティングで狙うのは、基本的に巨躯の雄ムースのみ。
その年のムースの数などの様子を鑑みて、部族会議で決まりをつくり、
捕りすぎることのないよう、調整すると聞きました。
インディアンの人々は、ムースによって生かされてきたことを、きちっと心得て
心を配っているのですクローバー




ムースは、草を食んだり水を飲んだりするために、このような湿生の
草地へ出てきます。
ハンターは、木に登って遠くを見渡してムースを探したり、鳴きまねをして
気をひいたり、いろいろするのだそうです。
道具が進歩したとはいえ、野生動物を狩るには、たいへんな労力を必要とします。


ビーバーの隣村、アークティックサークルからたまたま来ていたというサムが切っているのは、ムースの肉。

獲ってきたムースの解体では、基本、ナイフ以外は使わないことになっているのだそう。
動物に対する敬意、ということなのでしょうか。
サムは、慣れた手つきで肉を切り分けていきます。




リョウさんも、ナイフで解体を手伝いました。
関節などの固い部位もすべてナイフで切る、というのはかなり大変で、
コツがいるのだそうです。
なお、リョウさんのうしろの小屋は、ビーバー村のたいていの家にあるという
"スモーク小屋"。
大方解体したら、このスモーク小屋に肉を少し吊るして燻してハエや蚊が
寄りつかないようにし、それから切り分けます。

ニンテンンドーDSで遊んだり、インターネットが不自由なくできたりする
環境が在る一方で、ビーバー村にはこのような永く続いてきた営みが
日常として今も息づいています。
  


Posted by ビーバー at 10:53Comments(0)ビーバー村のこと

2008年06月21日

村の学校、焼失したジェネレーター、四輪バギー、白夜明けの月


今日は一年でいちばん陽が長い日、夏至。
極北の先住民の人々にとっては、太陽の光に感謝するお祝いの日でもあります。

さて今日も前回につづき、ビーバー村の様子をすこし。




クルイックシャンク学校校長であるシャーリーンの家の庭で撮られたこの一枚。

写っている子どもたちは...




男の子が7歳くらいのジョーダン、現在10歳。
女の子が2歳くらいのシェイニー、現在5歳です。大きくなったねえうさぎ




フランク安田が創設に尽力したという、ビーバー村唯一の学校
クルイックシャンクスクール学校
この建物は、築30年ほど。
壁の塗り替えなどをしているため、けっこう新しく見えます。
8月のメモリアルポトラッチでは、ここがメイン会場になります。




村の電力源だったジェネレーター(発電機)。
昨年、火事により焼失。。




笑顔で写真におさまっているのは、クレッグ。
当時、小型飛行機のパイロット(ブッシュパイロット)をしていたのだそう。
道がなく、遠く離れて点在するアラスカ原野の小さな村々に物資を運ぶ手段として、
このような小さな飛行機は、極北エリアには不可欠な存在です。

その飛行機と同じくらい極北の村に欠かせないのが、飛行機の前に
写っている4輪バギー。
ビーバー村のような小さな村には舗装された道路はなく、したがって
自動車はほぼ必要なし。あっても工事用のものくらい。
そのかわりにこの四輪バギーが大活躍で、集落の中を行き来したり、
物を運んだりするとき、ハンティングに行くときなど生活のさまざまな
場面で使われます。




夏至を境に日一日と、夜が長くなっていきます。

これは、白夜が終わり、秋が来たことを知らせる月の出三日月
8月のメモリアルポトラッチの頃は、ずいぶん夜も長くなっていることでしょう。
  


Posted by ビーバー at 22:23Comments(1)ビーバー村のこと

2008年06月16日

森林火災の煙、泳ぐクマ、ユーコン川に架かる虹。


ビーバー村界隈の風景をちょこっとご紹介します。



Beaver Through(ビーバースルー)、と呼ばれる、ユーコン川支流の夕暮れ時。

極北地域では、夏になると森林火災が頻発します。
自然発火のものもあるし、人為的(キャンプの火の不始末とか)な場合もあります。
森林が燃える、というのは、あながち悪いことでもなくて、むしろ、極北の生態系に
おいてはある程度必要なこととされています。もちろん、過度な火災は望まれませんが...

この写真で、雲のように見えるのは、じつは煙。
森林火災による煙が、雲のように層になって漂っています。




川をモーターボートで遡るときに遭遇したブラックベア。泳いで川を渡っていました。
グリズリーという、ヒグマのような巨大なクマが、ユーコン川本流を泳いで横切ることも。




ビーバー村にいると、虹をよく見るのだそうです。ときには、虹が二重に架かることも。
(この写真も、じつは二重です。見えにくいですが。。)
ユーコン川をまたぐように架かる虹。
「東京であまり見られないから、撮ってみた(リョウさん談)」とのことです。
  


Posted by ビーバー at 10:42Comments(0)ビーバー村のこと

2008年04月06日

アラスカの先住民


フランク安田が残した功績、またビーバー村のことをよりよく知ってもらう
ために、今日は、アラスカ先住民について記しておこうと思います。

北米や南米で先住民と呼ばれる人々は、その多くが、ずっとずっと昔
ベーリンジアが海に沈んでベーリング海峡になる前に、ユーラシア大陸から
アメリカ大陸に渡ってきた人類の子孫だといわれています。
アメリカに暮らす先住民の人々は、一般にアメリカ先住民、とひと括りに
されがちですが、その中にはじつにさまざまな民族がいて、言語があって、
文化があります。

アラスカの先住民に関していうと、言語系ごと4つのグループに大別されます。

- 南東アラスカのネイティブインディアン(ハイダ族、クリンキット族など)
- アリュート
- エスキモー(イヌピアット/ユピック)
- アサバスカンインディアン

*日本では「エスキモー」という言葉は使わず、「イヌイット」と呼ぶようにいわれることもあります。
しかしこの2つは若干、言葉の定義がちがうし、英語圏ではふつうにEskimoと呼んでいるので、
ここではエスキモーという言葉を使います。ご了承ください。





南東アラスカのネイティブインディアンは、トーテムポールを造る民族として
知られている人々。
ポトラッチはもともとは彼らの文化ではじまり、広がったものと考えられています。
<写真は南東アラスカのケチカンという町にあるトーテムポールとクランハウス
(部族の集会場のようなもの)。クランハウスの壁に大きく彫られている動物はクマ>

アリュートは、アリューシャン列島の島々に暮らす海洋民族。

そしてフランク安田にまつわる話でおさえておきたいのは、あとの2つ。
エスキモー(イヌピアック/ユピック)アサバスカンインディアンです。

フランク安田が、ベアー号救助要請のために目指し、その後ネビロと結婚して
暮らしたポイントバローはエスキモーの村で、とくにイヌピアットと呼ばれる民族の
人々が生活していました。
エスキモーが暮らすのは、ただただ海と氷原、雪原が広がる北極海に面したエリア。
ツンドラ地帯で、木などは一本も生えていません。
食料はもっぱら、アザラシやクジラ、セイウチなどの海獣で、生肉を食していました。

一方、現在のビーバー村がある一帯、アサバスカンインディアンの居住地は内陸部で
山に囲まれた森林エリアです。
川での漁や、山での狩猟、ベリー類の採集などが生活の糧。
川で獲った魚や、森でしとめた動物は、焼いたり煮たり、薫製にしたりして食料としていました。

アラスカの先住民、と一口に言っても、このようにエスキモーとアサバスカン
インディアンでは、環境、言語、生活スタイル、食料などなど、すべてにおいて
決定的に異なっています。
そのちがいは、日本と中国のちがい以上のものとすら言えるかもしれません。
しかも、アサバスカンインディアンは、エスキモーのことを「生肉を食べるなんて!」と
嫌悪し、敵対的ですらあったといいます。

アラスカという土地と、そこに暮らす人々の日常を多少なりとも知ることで、
98年前にフランク安田が成し得たこと、ビーバー村や、1週間後に来日する
ビーバー村の子どもたちに対する関心を高めてもらえれば幸いですsakura




子どもたちがCruikshank Schoolの修学旅行で行ったニューメキシコ州アルバカーキ。
みんな、民族衣装に身を包んでいます。
全米のネイティブインディアンが集まり、それぞれの伝統を披露する会場にて。


posted by K  


Posted by ビーバー at 22:43Comments(0)ビーバー村のこと

2008年03月30日

ビーバー -98年前にフランク安田がつくったアラスカの村-


今から124年前の1884年、単身アメリカに渡った一人の少年がいました。

石巻出身の安田恭輔(フランク安田)です。

さまざまな過程を経て北極海に面したポイントバローというイヌイットの村に
行き着いたフランク安田は、海獣の猟を生業とする彼らとともに暮らしはじめます。
しかし、当時のアメリカの密猟船がクジラやアザラシを乱獲したことによる
深刻な食料不足、白人によってもたらされた疫病の蔓延などによって、やがて村は
絶滅の危機に瀕します。

そのとき、村人たちをアラスカの内陸部に広がるアサバスカンインディアンの
居住区に移住させ、新しい生活をはじめることで村を救おうと行動をおこした
のが、フランク安田でした。
イヌイットに対してけっして友好的でなかったアサバスカンインディアンと交渉し、
手に入れた新天地、それがビーバー村です。

新たな村を築き、海しか知らない人々に森での暮らし方を教え、イヌイットの
人々を救ったとされるフランク安田。
今年は彼が90歳で亡くなって、ちょうど50年目にあたります。
その記念すべき年に、ビーバー村で、ビーバーの村人と日本人とで開催する
フランク安田没後50年 メモリアルポトラッチに関わる情報を、
このブログで発信していかれればと思います。 

今日はまず、ビーバー村の様子を写真ですこし。




ビーバー村上空から見たユーコン河。冬はほぼ全面凍結する。




ビーバー村の集落と、砂利の飛行場。




FUEL PLANE(燃料機)。 
道路の通っていないビーバー村には、村の南約100kmにあるいちばん
近くの大きな都市、フェアバンクスFairbanksからこのような飛行機で
燃料が運ばれてくる。
車は走っていないが、4輪バギーやボートのために燃料が必要。




今は閉店したイヌイットコープ(ストアー)の壁には、子供が描いた
Welcome to Beaver(ようこそビーバー村へ)の張り紙。

posted by K  


Posted by ビーバー at 22:02Comments(5)ビーバー村のこと