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Posted by だてBLOG運営事務局 at

2008年04月06日

アラスカの先住民


フランク安田が残した功績、またビーバー村のことをよりよく知ってもらう
ために、今日は、アラスカ先住民について記しておこうと思います。

北米や南米で先住民と呼ばれる人々は、その多くが、ずっとずっと昔
ベーリンジアが海に沈んでベーリング海峡になる前に、ユーラシア大陸から
アメリカ大陸に渡ってきた人類の子孫だといわれています。
アメリカに暮らす先住民の人々は、一般にアメリカ先住民、とひと括りに
されがちですが、その中にはじつにさまざまな民族がいて、言語があって、
文化があります。

アラスカの先住民に関していうと、言語系ごと4つのグループに大別されます。

- 南東アラスカのネイティブインディアン(ハイダ族、クリンキット族など)
- アリュート
- エスキモー(イヌピアット/ユピック)
- アサバスカンインディアン

*日本では「エスキモー」という言葉は使わず、「イヌイット」と呼ぶようにいわれることもあります。
しかしこの2つは若干、言葉の定義がちがうし、英語圏ではふつうにEskimoと呼んでいるので、
ここではエスキモーという言葉を使います。ご了承ください。





南東アラスカのネイティブインディアンは、トーテムポールを造る民族として
知られている人々。
ポトラッチはもともとは彼らの文化ではじまり、広がったものと考えられています。
<写真は南東アラスカのケチカンという町にあるトーテムポールとクランハウス
(部族の集会場のようなもの)。クランハウスの壁に大きく彫られている動物はクマ>

アリュートは、アリューシャン列島の島々に暮らす海洋民族。

そしてフランク安田にまつわる話でおさえておきたいのは、あとの2つ。
エスキモー(イヌピアック/ユピック)アサバスカンインディアンです。

フランク安田が、ベアー号救助要請のために目指し、その後ネビロと結婚して
暮らしたポイントバローはエスキモーの村で、とくにイヌピアットと呼ばれる民族の
人々が生活していました。
エスキモーが暮らすのは、ただただ海と氷原、雪原が広がる北極海に面したエリア。
ツンドラ地帯で、木などは一本も生えていません。
食料はもっぱら、アザラシやクジラ、セイウチなどの海獣で、生肉を食していました。

一方、現在のビーバー村がある一帯、アサバスカンインディアンの居住地は内陸部で
山に囲まれた森林エリアです。
川での漁や、山での狩猟、ベリー類の採集などが生活の糧。
川で獲った魚や、森でしとめた動物は、焼いたり煮たり、薫製にしたりして食料としていました。

アラスカの先住民、と一口に言っても、このようにエスキモーとアサバスカン
インディアンでは、環境、言語、生活スタイル、食料などなど、すべてにおいて
決定的に異なっています。
そのちがいは、日本と中国のちがい以上のものとすら言えるかもしれません。
しかも、アサバスカンインディアンは、エスキモーのことを「生肉を食べるなんて!」と
嫌悪し、敵対的ですらあったといいます。

アラスカという土地と、そこに暮らす人々の日常を多少なりとも知ることで、
98年前にフランク安田が成し得たこと、ビーバー村や、1週間後に来日する
ビーバー村の子どもたちに対する関心を高めてもらえれば幸いですsakura




子どもたちがCruikshank Schoolの修学旅行で行ったニューメキシコ州アルバカーキ。
みんな、民族衣装に身を包んでいます。
全米のネイティブインディアンが集まり、それぞれの伝統を披露する会場にて。


posted by K  


Posted by ビーバー at 22:43Comments(0)ビーバー村のこと

2008年04月04日

ビーバー村Cruikshank School修学旅行

4月12日、ビーバー村から子供たちが日本にやって来ます。そしてフランク安田の生まれ故郷である石巻に4月15、16日と滞在し、湊小学校での交流会や市民との交流会を予定しています。

今回は、ビーバー村創立以来はじめての海外修学旅行です。

最初は、ビーバー村の学校の校長であるシャーリーンだけが日本に来る予定でした。しかし、できることなら子どもたちと一緒に、と考えた彼女は、ロサンゼルスのオーロラ基金(Aurora Fandation)が毎年行っている「オーロラチャレンジグラント」に応募しました。この賞は、日本に関連する夢を持ったアメリカ人を対象に募集され、受賞すると日本までの往復航空券と滞在費を受け取ることができます。

シャーリーンはメモリアルポトラッチと石巻訪問の夢をのせて応募し、見事に受賞しました。受賞後、彼女は全員のパスポートを取得することからはじめ、教育機関などあらゆる方面に働きかけて予算を確保し、ついに今回の修学旅行が実現することになったのです。

大きなスポンサーがすべて面倒を見てくれるのではなく、アラスカ、ロサンゼルス、石巻をはじめ日本の多くの人が賛同し、協力してくれたことで実現する、という点で、今回の訪日は、とても価値のある修学旅行だと思います。

今回、石巻にやってくる子供たちが大人になったときに、この修学旅行を良い思い出として語り継いでもらいたいです。そうすれば、これから生まれてくるビーバー村の子供たちが、自然とフランク安田のことに興味を持ってくれる事でしょう。





ユーコン川にて、ボートを操縦する(?)当時1歳半のウィリアムスWilliamsくん。
ビーバー村は、人口70人ほどの小さな村のため、そこにあるクルイックシャンク学校
Cruikshank Schoolは、幼稚園児から高校生までが通う、幼・小・中・高一貫教育。
したがって、現在2歳で、クルイックシャンク学校に幼稚園児として通っている
この写真のウィリアムスくんも来日します。

ちなみに、この手の学校は、最低10名の生徒がいないと廃校、ということで、
その存続が危ぶまれています。。

posted by S  


2008年03月31日

計画を思い立ったきっかけ


2000年の夏、ビーバー村である人物のメモリアルポトラッチが行われた。

その人の名は、サルビン・アダムス。

フランク安田と同じ時代にビーバー村で生きた人だった。

彼は疫病死の疑いがかけられてしまい、東南アラスカのシトカという町に
遺体を隔離されてしまったのである。
実際は疫病ではなかったのだが、疑いが晴れるのに長い年月がかかった。

2000年の夏、彼はビーバー村に帰ってきた。
ビーバー村をはじめ、近くのフォートユーコンやスティーブンスビレッジからも
多くの人が集まってきた。
村の中心部近くに野外特設会場がつくられ、焚き火がはじまった。
村で所有している特大鍋が登場し、ムース(ヘラジカ)ヘッドスープがつくられていく。
テーブルにはキングサーモンやヤマアラシ、カナダガンの料理が
ところ狭しと並べられている。

人々がテーブルの周りに集まり帽子をとると、一人の長老が、自分たちの
血となり骨となる目の前に並んだ料理に対して、祈りの言葉を捧げていく。
料理は老人から皿に盛っていく。
足腰の不自由な人には村人が率先して、代わりに料理を皿に盛っていく。

食後はフィデロ(バイオリン)バンドが音楽を演奏し、極北の風景にあった
心地よい音が流れていった。
夜になると学校の体育館に人々は集まった。
ポトラッチのために準備された工芸品や贈り物が、中央に山のように積まれている。
人々は贈り物をそれぞれ受け取ると、工芸品を身に着け、ドラムダンスをおどる。
最初は小さな人の輪だったのが、徐々に大きく膨れ上がり、
太鼓と人の掛け声が体育館の壁を突き抜け、オーロラが輝く、
極北の森に響いていった。
極北のネイティブインディアンの人々の伝統や文化が集約された
素晴らしい行事に感動した。

このとき、いつかビーバー村の人たちに、フランク安田のメモリアルポトラッチを
開催してもらいたいとはじめて思った。

それから約8年の月日が経過し、いよいよ夢が実現しようとしている。

この8年間、村の人々とは深い信頼関係を築いてきた。
今回計画しているフランク安田メモリアルポトラッチで、フランク安田の
残した功績をみんなで再確認し、また、彼を支えた妻のネビロ安田、
トーマス・カーター、ジョージ大島、ジェームスみなの、そして多くの
イヌピアックエスキモー、アサバスカンインディアンのことをみんなで
語りたいと思う。

posted by S  


Posted by ビーバー at 10:10Comments(3)メモリアルポトラッチ

2008年03月30日

ビーバー -98年前にフランク安田がつくったアラスカの村-


今から124年前の1884年、単身アメリカに渡った一人の少年がいました。

石巻出身の安田恭輔(フランク安田)です。

さまざまな過程を経て北極海に面したポイントバローというイヌイットの村に
行き着いたフランク安田は、海獣の猟を生業とする彼らとともに暮らしはじめます。
しかし、当時のアメリカの密猟船がクジラやアザラシを乱獲したことによる
深刻な食料不足、白人によってもたらされた疫病の蔓延などによって、やがて村は
絶滅の危機に瀕します。

そのとき、村人たちをアラスカの内陸部に広がるアサバスカンインディアンの
居住区に移住させ、新しい生活をはじめることで村を救おうと行動をおこした
のが、フランク安田でした。
イヌイットに対してけっして友好的でなかったアサバスカンインディアンと交渉し、
手に入れた新天地、それがビーバー村です。

新たな村を築き、海しか知らない人々に森での暮らし方を教え、イヌイットの
人々を救ったとされるフランク安田。
今年は彼が90歳で亡くなって、ちょうど50年目にあたります。
その記念すべき年に、ビーバー村で、ビーバーの村人と日本人とで開催する
フランク安田没後50年 メモリアルポトラッチに関わる情報を、
このブログで発信していかれればと思います。 

今日はまず、ビーバー村の様子を写真ですこし。




ビーバー村上空から見たユーコン河。冬はほぼ全面凍結する。




ビーバー村の集落と、砂利の飛行場。




FUEL PLANE(燃料機)。 
道路の通っていないビーバー村には、村の南約100kmにあるいちばん
近くの大きな都市、フェアバンクスFairbanksからこのような飛行機で
燃料が運ばれてくる。
車は走っていないが、4輪バギーやボートのために燃料が必要。




今は閉店したイヌイットコープ(ストアー)の壁には、子供が描いた
Welcome to Beaver(ようこそビーバー村へ)の張り紙。

posted by K  


Posted by ビーバー at 22:02Comments(5)ビーバー村のこと